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静岡県浜松市


みかたばらこせんじょうあと

三方原古戦場跡 (静岡県浜松市北区根洗町)  
 1572年に武田信玄徳川家康が戦った場所。
 三方ヶ原の戦いは武田信玄の西上作戦中に行われた最も有名な戦いで徳川家康が大惨敗したことでも知られる。
 武田軍2万7千に対して、徳川軍は織田の援軍を合わせても1万1千程度しか兵を集ることができなかったという。そのため、家康は浜松城での籠城を決意するが、武田軍は浜松城を無視して城の北方に位置する三方ヶ原に向ってしまう。監視役でもあった織田の援軍の手前、家康は出陣して後を追うが「祝田の坂」の手前で武田軍の待ち伏せにあい惨敗した。
 しかし、通常、兵数が劣る場合に敷くことのない「鶴翼の陣(包囲するための陣)」を徳川軍が敷いたことをはじめ、戦場が実際何処であったかも諸説あって謎が多く、結果以外で分かっていることは案外少ない。

(メモ)
 石碑は、国道257号線沿いにある三方原霊園(墓地)駐車場の片隅にある。
 「祝田の坂」は霊園の北にあり、入口の目印としてこの辺りの地名の由来となった根洗松がある。信玄はこの根洗松の少し南に本陣をおいて家康を待ち伏せたという。
 数で劣勢だった家康が本来数にものを言わせて敵軍を包囲する「鶴翼の陣」を敷いたことは謎だが、「祝田の坂」は大軍が通るには細く、また、坂の脇は崖とまではいかないまでも、それなりの急斜面であるため、背後から襲って何とか押し込めれば、何とかなると思ったのかもしれない(あくまで個人的見解)。

霊園にある石碑と案内板

祝田の坂

根洗松(祝田の坂入口)



りょうたんじ

   
本堂入口
   万松山龍潭寺 (静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)
 
井伊家の菩提寺。井伊直平が黙宗瑞淵を迎えて開山し、龍泰寺を建立。井伊家22代・直盛が桶狭間の戦いで討死すると、直盛の法号から龍潭寺と名を改めた。
 二世住職・南渓瑞聞井伊直虎と虎松(のちの井伊直政)を助け、没落していた井伊家の復興に尽力した。南渓瑞聞は井伊直平の次男ともいわれる。
(メモ)
 境内には井伊家の廟所、墓所があり、許婚でありながら結ばれることのなかった直親と直虎のお墓は隣り合っている。
 井伊谷三人衆や新野左馬助の墓や供養塔もある。
 庭園は小堀遠州の手によるものといわれ、国の名勝に指定されている


井伊家廟所 本堂 小堀遠州作の庭園



いいのやじょう


井伊谷城遠景

御所丸跡入口付近
井伊谷城 (静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)
天守:なし
戦国期の主な歴史
1032年 井伊家初代・共保が築城したといわれる。
1514年 井伊直平、今川家臣である朝比奈氏に敗れ今川家臣となる。
1560年 城主・井伊直盛が桶狭間の戦いで討死。直親が城主となる。
1562年 井伊直親小野政次の讒言で今川氏真に殺害される。
1563年 井伊直平、天野討伐の途中で急死する。
1565年 井伊直虎、城主となって井伊谷を治める。
1568年 小野政次、井伊谷を横領するが、翌年、討伐される。
1572年 武田家臣・山県昌景の侵攻を受ける。
1573年 武田信玄の死により、井伊直虎、城主に返り咲く。
1575年 井伊直政徳川家康に仕える。
1582年 井伊直虎没。直政が城主となる。
1590年 井伊直政、上野箕輪に移封。のち廃城となるが、詳しい年代は不明。
(メモ)
 南北朝時代、井伊谷城は井伊家の平時の居城で、戦時は井伊谷城から北東2.5㎞に位置する山城・三岳城に籠ったといわれる。
 大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放映にともない、山頂までの道が整備された。
 目を引くような遺構は残っていないが、曲輪らしき跡や、御所丸入口付近に土塁跡などがある。
 城跡のある山は、それほど高くないが、山頂までの道は勾配がきつく、それなりに疲れる。



ふたまたじょう


天守台
二俣城 (静岡県浜松市天竜区二俣町)
天守:なし
戦国期の主な歴史
16世紀前半、駿河を支配する今川家が、遠江を支配していた斯波家に対抗するための拠点として城館を築いたのが前身といわれる。
1569年 今川家滅亡後、徳川家康の支配下に置かれる。
1572年 武田信玄により落城(西上作戦)。
1575年 長篠の戦い後、徳川軍により落城。大久保忠世が城主となる。
1579年 徳川家康の長男・信康が幽閉され、のち切腹となる。
1590年 家康関東移封、浜松に入封した堀尾吉晴の支配下となる。
1600年 堀尾吉晴が出雲に転封。廃城となる。
(メモ)
近くの清瀧寺には、信康の廟所と、二俣城の水を確保するために建てられたという櫓が復元されている。
秋葉街道を挟んだ反対側には、大久保忠世が二俣城攻略のために築いた鳥羽山城跡がある。
本丸入口の虎口 清瀧寺近くに復元された櫓 清瀧寺にある信康廟



たかねじょう

高根城 (静岡県浜松市天竜区水窪町)
天守:なし
戦国期の主な歴史
1414年 地元の豪族・奥山家が後醍醐天皇の孫・尹良親王を守るために築城したと伝わる。
1569年 今川家滅亡後、武田信玄の支配下に置かれ改修される。
1572年 武田信玄の遠州侵攻の拠点となる。
1575年 長篠の戦い後、武田家の衰退にともない廃城。
(メモ)
遠江と信濃の境にあった城。武田時代の山城が復元されており、見応え十分。
行くのも登るのも、かなりの山奥なので、けっこうたいへん。
大河ドラマ「おんな城主 直虎」のロケで使用された。



さいかがけこせんじょうあと

 
石碑と案内板
犀ヶ崖古戦場跡 (静岡県浜松市中区鹿谷町) 
 犀ヶ崖の戦いは、三方原の戦いに惨敗した徳川勢が、武田勢に対して一矢報いた戦いといわれる。
 浜松城に逃げ帰った徳川家康は、大久保忠世天野康景らに命じて浜松城の2キロほど北にある犀ヶ崖に白い布を張り、在陣していた武田勢を夜襲。驚いた武田勢は張られた布を橋と勘違いし、渡ろうとして多くの兵が崖に落ちて亡くなったといわれる。
(メモ)
 古戦場跡の石碑の他に、三方ヶ原の戦いで討死した本多忠真の石碑、道を挟んだ向かいにも同じく家康を逃がすために討死した夏目吉信の石碑がある。
 本多忠真は、本多忠勝の叔父で、幼くして父を亡くした忠勝に武士としての心得や戦の仕方を教えたといわれる。
崖に布の橋をかけたことから、「布橋」という地名が残っている。
 
現在の 犀ヶ崖 夏目吉信の碑 本多忠真の碑  家康御手植えの楠



たちあらいのいけ

太刀洗の池 (静岡県浜松市中区富塚町)
 1579年、徳川家康の正室・築山殿(瀬名姫)を殺害した際に使用した太刀を洗ったといわれる場所。
 築山殿は、今川家の重臣・関口親永の娘で、家康の長男・信康を産んだ。その後、信康は織田信長の娘・徳姫を娶るが、なかなか嫡男を産むことができなかったこともあり、築山殿とは仲が悪かったといわれる(嫁姑だし)。
 徳姫は、築山殿が武田家と内通しているなど、12ヶ条からなる訴状を信長に送り、これを問題視した信長の命によって、信康は切腹、築山殿は殺害されたというのが通説になっている。
 しかし、最近では家康と信康の対立から起きたという説もあり、まだまだ謎が多い。
(メモ)
石碑と案内板は、浜松医療センター駐車場の片隅にある。写真を見ての通り、池はない。



はままつじょう


模擬天守

天守門と天守
浜松城  (静岡県浜松市中区元城町)
天守:模擬天守  続日本100名城
戦国期の主な歴史
15世紀ごろに築城され曳馬城と呼ばれた。
1568年 徳川家康飯尾連竜の未亡人・お田鶴の方が守る曳馬城を攻め落とす。
1570年 徳川家康、武田信玄に備え、曳馬城を拡張。「浜松城」と改名する。
1572年 徳川家康、三方ヶ原の戦いで武田信玄に惨敗し逃げ帰る。
1586年 徳川家康、居城を駿府に移す。
1590年 家康関東移封。豊臣家臣・堀尾吉晴が12万石で城主となる。
1600年 堀尾家が出雲富田に移封。以後、徳川譜代が次々と城主をつとめる。

(メモ)
徳川家康が29歳から45歳まで17年間居城とし、この間に三方原の戦い、長篠の戦い小牧・長久手の戦いなど有名な合戦を行った。
この地にあった
家康が「浜松城」と改名したのは「曳馬」が「引馬」、「馬を引く」と敗北を意味する縁起が悪い名前であったから。
家康が、三方ヶ原の戦いに惨敗し、浜松城に逃げ帰った時に具足を掛けたという松の三代目が天守の南の通り沿いにある。初代は城内にあったといわれる。
江戸時代に入り、歴代城主が幕府の重役を担ったため、「出世城」と呼ばれた。

安土・桃山時代から残る石垣 復元された天守門 鎧掛松(三代目)
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なかむらけじゅうたく

中村家住宅 重要文化財 (静岡県浜松市西区雄踏町)
 戦国期、中村家は今川家の代官をつとめ浜名湖の軍船を管理していたといわれる。今川家滅亡後は、徳川家康に仕え引き続き代官や軍船兵糧奉行をつとめる。
 1574年には、徳川家康の側室・お万の方が、この家で次男・於義丸(のちの結城秀康)を産んでいる。
(メモ)
 重要文化財に指定されている主屋は江戸時代に入ってから建てられたもの。
 結城秀康が越前福井藩の初代ということもあり、幕末には松平春嶽も訪れているらしい。また、展示室には春嶽と親交があった勝海舟による書もあったりする。